私は札幌に住む現役理系大学院生である。
YouTubeのオススメに岡田斗司夫さんの切り抜き動画が出現し、岡田さんに感化された結果、何かSF小説を読んでみたくてウズウズしてきた。
大学生協の書籍コーナーへ赴き、早川書房の全SF作品を手に取って眺め、(面白そうっ!)とビビッときた2冊の本を購入して読んでみる事にした。
この記事では、そのうちの一冊である、”アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”を読んだ感想について記していく。
本作は大変興味深い小説で、あまりに面白すぎて私は一夜で読んでしまった。
そんな素晴らしい本作の魅力を少しでも伝えられればいいなと思って記事を書いたので、SF作品に興味のある方はぜひ最後までご覧頂きたいと思っている。
それではさっそく始めよう。
Contents
テーマの解釈
まず、この本のテーマに関する私なりの解釈だが、作者のフィリップ・K・ディックは「人間を人間たらしめているものは何なのか?」と社会に問いかけたかったのではないだろうか?
私たちは日々当然の如く”人間”として振舞っており、自分を人間以外の存在(たとえばアンドロイド)だと考えたことなどないかもしれないが、
- じゃあ人間とその他の存在を区別するものって何なの?
- 人間の中にもアンドロイドっぽい人間がいて、アンドロイドの中にも人間っぽい人間がいるんじゃないの?
と作者はその鋭い感性で疑ってみて、素朴な疑問をストーリーとして組み立てたのだと考えている。
本作の主人公は人間とアンドロイドを問いに対する感情移入度で識別しようと試みているから、両者の境界線の一つはおそらく生理的反応の有無なのであろう。
どれだけ頭の良いアンドロイドでもその検査(フォークト=カンプフ検査)をパスできないらしいので、人間か/人間でないかを分析するにはこの方法が有効な選択肢として挙がってくる。
また、肉体を持っていれば人間だろうし、体が機械であればアンドロイドなはず。
私自身、この根拠でもって自分自身を人間と見なしているし、他の人間の読者さんも私と同様の考えをお持ちではないだろうか?
しかし、ここで一つ、疑問が生じる。肉体を持つが感情移入できない生き物って果たして人間なのだろうか?と。
この対偶も同様である。体が機械だが感情移入できる”もの”ってアンドロイドだろうか?と…
上の文章を読み、
とお思いになった読者の方がいらっしゃるかもしれない。
しかし、私の頭はおかしくなってはいないし(もともとおかしいだけかもしれない笑)、筆者自身も真面目に問いかけたかったであろう疑問である。
今後、社会のIoT化が進むにつれ、人間関係がますます希薄化・リモート化し、感情移入しようにも移入する相手を見つけることすら困難になってくる。
そうして少しずつ人間たらしめている能力を失っていき、ついには何を見ても何も思わなくなった時、(我々は果たして”それ”なのか”人”なのか、どっちなのだろう?)と、読了後、眠れなくなるほど考え込んでしまったのである…
私なりの解答としては、
- 肉体を持つが感情移入できない”生き物”はアンドロイド
- 体は機械だが感情移入できる”もの”は人間
このような形になる。
やはり、感情があるかないかは大きな違いだと考えており、感情の無い肉体生物を人間と見ることはどうしてもできないのである。
逆に、たとえ体が機械でも、私の言ったことに笑ってくれたり泣いてくれたりしたら、私は”それ”を人間だと見なすであろう。
まぁ、最近はすごい勢いでIT技術が進歩しているので、アンドロイドに笑ったり泣いたりできるプログラムが仕込まれている可能性もなくはないが、それでも無感情の人間よりはよっぽど人間らしいと私は思ってしまうのである。
私はアンドロイドになりかけていた
「じゃあそんな私はどっちなんだ?」と自問してみると、自身が徐々にアンドロイド化していたことに気付かされた。
昔は感情に敏感な方であり、敏感すぎるせいで苦しかったり生きづらかったり様々な労苦を強いられていたほどなのに。
私がアンドロイド化した一因は、大学の研究室で感情を排した議論ばかり行っている影響だと考えている。
研究は主観で進めると論理破綻するためなるべく客観的にデータを眺める必要があるのだが、研究ばかりやっていたせいで人間が保有する”感情を抱く”という行為自体を忘れかけてしまっていた。
とはいて完全にアンドロイド化したわけではなく、まだある程度の感情は残っている。
今の状況をグラフに表すと、私は第一象限と第二象限の間(若干第一象限寄り)にポジショニングしており、かろうじて人間としての尊厳を保っている形である⇩
このまま現状を放置すると、本当にアンドロイドになってしまう。
最近は実験室で実験している夢まで見始めたので、何も手を打たなければますます事態は悪化するばかりである。
そこで、今後は研究室外で意図的に感情表現する時間を設けようと思う。
具体的には、昔好きだった曲をYouTubeで聴き過去を懐かしく思い出したり、上裸で陸上トラックを走り回って「気持ちぃぃ~っ!」と叫んでみたりする。
また、趣味でやっているランニングの強度をもう少し上げ、ゼーハーすることで苦しみを味わい、強制的に生きている実感を味わってみるのも有効な選択肢として考えられる。
このように感情に大きな起伏を作り出し、アンドロイドへの道を全速力で進む私を何とかどこかで食い止めることで、自身の人間としての要素を少しでも拡張し、外面だけでなく内面も人間化させていくつもりである。
最後に
フィリップ・K・ディック作の”アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”に関するレビューは以上である。
本記事を書いた今でも人間とは何か未だよく理解できていないし、本命題はこの本を何回も読んで考えていかねばならないと思っている。
久々にSFを読み、SFを読みたい欲が一気に増大してきたように感じている。
ドストエフスキーの描く非日常も良いが、思い切り現実離れした世界観を味わえるSF作品は頭の柔軟性を高めるのに最高の素材なので、これからもたくさんSFを読み、そこで得られた発想力を研究に活かせればいいなぁと考えている。
以上です。