【Take2】博士課程に進学する理由三部作 (下):人生哲学を構築し、残りの人生をやりたいことで染め上げたいから

【Take2】博士課程に進学する理由三部作 (中):イギリスに長期留学し、限界の境地で己の幸せを見つけ出したいから

2022-07-18

私は札幌に住む現役理系大学院生である。

大学院修士課程卒業後、博士課程へ進学する決意を改めて固めた。

この記事では、博士進学する最後の理由について色々と書き連ねていく。

博士になる思いの丈を文章で最大限表現してみたので、博士課程進学を迷っている人、ならびに私のブログのファンの方はぜひ最後までご覧頂きたいと思っている。

 

それではさっそく始めよう。

何者かになりたくて、何者にもなれなかったこれまでの人生

物心がついた頃から、私は”自分が人と違っていること”を第一の指針と定めてきた。

ただ周りと一緒のことをするだけでは全く楽しくなかったし、誰かの後追いではなく先駆者として道を切り開くことを最大の生き甲斐としてきたのである。

しかし、それで成功するのはごく一部の人間だけ。

私は案の定成功できず、先駆者どころか”後躯者”にすらなれなかった。

”なぜ人と違い続けたかったのか?”と自問してみると、(どうせなら何者かになりたい, 多勢に埋もれるのはなんか嫌だ…)と思ったからじゃないか?と一つの仮説が立てられた。

私の前には一流大学・大学院進学→大企業就職→結婚→…といったレールが敷かれていたが、先が見えている人生は退屈に感じたし、自分じゃなくとも他の人が代替しうる道筋のため、(その既定路線に吞み込まれたら”自分にしかなしえない役割”を果たせないじゃないか!)とプンプン憤っていたのであろう。

就職するのがどうしてもイヤで、このブログを立ち上げてお金儲けを開始した。

(まずは大学の学費を賄えるようになり、いずれは会社員並みにガツガツ稼いでやろう!)と意気込んでいたものの、結局は月3,000円程度しか稼ぐことができず、フリーランスライターなど夢のまた夢だったわけである。

焦って色々手を出したけれど、人生を激変させるまでには至らなかった。

何者かになりたくて、でも何者にもなれなくて…焦れば焦るほど泥沼にハマり、少しずつ行動を起こすのが怖くなっていった。

 

これまで迷走し続けてきたのは、人生のコンパスが壊れていたから

ディッケンズの大いなる遺産を読んでいて気づいたのだが、私が人生の袋小路に陥った要因はどうなりたいかばかり考えていたからだ。

本当に考えなくちゃいけなかったのは外面ではなく、どう”在り”たいかという内面的な問題だったはずなのである。

これまで見せかけの外面ばかり飾ることに必死であくせくしてきた一方、荒んで雑草だらけになった内面に目を向けることをほとんどやってこなかった。

私は何者かになるのを目指すのでなく、”自分になること”に己の全資源を投入すべきだった。

内面から湧き出る想いを「人生のコンパス」と呼ぶことにすると、そのコンパスの針は長きにわたる放置のせいで狂ったように回転している。

自分の中に芯がないから他人と違うことに重きを置き、その結果として他人の言動に右往左往し迷走してきたのだと考えている。

コンパスを持っていなかったわけじゃない。コンパスが壊れていたのである。

方位磁針はネオジウム磁石で直せると聞くが、人生のコンパスの修理に必要なのは時間と哲学だと考えている。

 

博士課程へ進学する理由その3:自由に使える時間を入手し、自分がどう在りたいか、よく考えてみたいから

博士課程に進学する3つ目の理由は、人生哲学を構築する時間があと少しだけ欲しいからだ。

自分の内面と膝を突き合わせ、「お前はどう在りたいんだ?」と自問自答する時間が必要なのだ。

こんなことはきっと、器用な人間なら会社で働きながら片手間にできてしまうに違いない。

しかし、私は生来大変不器用な性質なので一度に一つのことしかできそうになく、”自由に使える時間がなければ一生解決できずに終わってしまう”と感じたのである。

現状、(ありのままでいたい)という思いは少なからず持っている。

ただ、現在は”ありのままでいたい自分A”と”何者かになりたい自分B”が両方心に巣くっていて両者が綱引きをして私を引き裂きにかかっている状況である。

博士課程の3年間で自分Aと自分Bの最大公約数を見つけ出し、心中に調和をもたらしたい。

もしかしたら研究が大成功して”何者”かになることができるかもしれないが、そうした可能性はごく僅かのため、何者かになりたい想いをエネルギーの源泉とし、自分Aと自分Bの間に上手いこと折り合いをつけたいと考えている。

博士号の集大成として、学生は博士論文なるものを書く。

私の博士論文の最後に”私はどう在るか?”なる章を設け、3年間に培った人生哲学を言語化することでもって博士課程を締めくくろうと思っている。

博士の英名はPh.D. (Doctor of Philosophy)、つまり哲学を持った人間ということだ。せっかく20代最後の時間を費やすのだから、専門バカになるのではなく、「自分はこう生きていきます」と胸を張って言える人間になりたい。

 

おまけ:もしあと3年しか生きられないとしたら、自分は何に時間を使うか?

博士進学と修士就職で迷った時、(もし寿命があと3年しかなかったら自分はどう生きるだろう?)と目を瞑り自問自答を行ってみた。

自分の手持ち時間が豊富にあればこれまで通り瞑想できるだろうが、もし残り時間が僅かならば、回り道をしている暇はないのである。

できることが限られたなら、きっと後世の人間が一層幸せになれる遺産を残すことでもって己の幸せとするだろう。

じゃあそれが叶う道はどちらなのか?と考えてみた時、私には就職よりも進学の方が相応しいように感じられた。

企業で働いても間違いなく社会に貢献できるだろうし、自分が死ぬ前に社会の役に立った充実感を味わいたいなら進学よりも企業勤めの方が手っ取り早いと考えられる。

けれども、企業が提供する”役に立つもの”の多くは5年後や10年後には”役立たないもの”に成り下がるため、自分の努力がそんな短いスパンでガラクタになってしまうことに悲しさやむなしさを感じてしまった

その点、大学院の研究成果をしたためた論文は、すぐには役立たないが50年後の産業のタネとなる可能性がある。

論文の多くは日の目を浴びずに終わってしまうので、我が努力が水泡に帰す可能性も大いにあるが、注目された時の社会へのインパクトは凄まじいものがあるため、もし3年で死ぬなら(自分の研究成果が役立てばいいなぁ…)と希望を抱いて生涯を終えられると思ったのである。

 

最後に

私が博士課程へ進学する3つの理由はこれで以上となる。

まとめると、

  1. 自分は電池が大好きだ。電池を極め、世界一となり、日本の次世代電池開発に微力ながら貢献させてもらいたい
  2. イギリスに長期留学し、自分が避け続けてきた”自身の限界”に挑戦する。エリートに散々打ちのめされ、自分の幸せを再定義したい
  3. 自分がどう在るのか、じっくり腰を据えて考えてみたい。3年で人生のコンパスの修理を終え、構築された人生哲学を今後の人生の糧とする

このような形とある。

心の中の思いを言語化することで気分がかなりスッキリとした。

今後は今まで以上に研究に打ち込み、たくさんの痛い思いをしながら自分の生き方を見つめ直していこうと思う。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

2 件のコメント

  • かめさん、結婚のほうはできそうな未来は見えますか?
    私はまだまだ遠そうです。

    • natsukiさん、いつもコメントありがとうございます。

      彼女すらできそうにないですから、生涯の伴侶を見つけるなんて極めて困難だと思っています。
      死ぬまでに一度は結婚してみたいのですが、おそらく厳しいのでしょうね…
      natsukiさんも頑張ってパートナー見つけて下さい^^ 一緒に頑張りましょう!

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